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文化財・伝統行事

 

長野原町の文化財 

 

吾妻峡 

(国指定名勝 昭和10年12月24日指定)

吾妻峡は、東吾妻町・長野原町にまたがる渓谷で、安山岩を主とし、吾妻川の浸食によって作られ、四季を問わず絶景を楽しむことができる。  大正元年に地理学者の志賀重昴が九州耶馬渓にも勝ると激賞した。 

  秋の渓谷       吾妻峡ムラサキツツジ

           

 

 

   

 

 

 

                   

 

 

 

川原湯岩脈 

(国指定天然記念物 昭和9年12月28日指定)

臥龍岩・・・岩脈は、地層の割れ目にマグマが噴出し固まったもので、河床の下をもぐったように柱状節理が横になっている。この状態が臥龍(横たわった龍)に似ているため呼称された。今から約220万年前にできたと考えられる。          昇龍岩…久森トンネルの近くにあり、そそり立つ断崖を垂直方向にのびた柱状節理で、龍の腹部に似ているところから昇龍岩と名付けられた。           

 

勘場木石器時代住居跡

 (県指定史跡 昭和30年1月14日指定)

昭和28年に発見され、翌29年に発掘調査が行われた。直径約4.5mの円形の形をした竪穴式住居跡である。中央に炉を持ち、柱穴が6穴確認された。出土品では甕や浅鉢、深鉢及び石斧、石のナイフなどがある。約4500年前の遺跡と考えられる。                                         勘場木遺跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

防空監視哨跡(聴音壕)

 (町指定重要文化財 平成16年5月20日指定)

昭和16年(1941)太平洋戦争が始まり、国内の防空体制が強化される中、全国に防空監視哨が作られた。この聴音壕は敵機の音や種類をいち早く見分けて、本部へ報告することを仕事としていた。構造は、レンガの二重積みで、壕の縁がラッパ状になって集音しやすくできている。勤務には、国民学校高等科を卒業した15~16才の青年が、24時間体制であたっていた。県内に作られた約40ヶ所のうちのひとつで、状態が比較的よく保存され、戦争を知る重要な遺跡である。       防空監視哨

板碑  

 (町指定重要文化財 昭和49年9月21日指定)

板碑とは、板状の石(緑泥片岩が多い)に梵字や仏像を刻んだ供養の塔婆で、関東地方に多く、鎌倉時代から南北朝時代にかけて盛んに作られた。本資料は、高さ84cm、幅30cmの大きさで、正面には阿弥陀三尊を表す梵字と延文2年(1357)5月2日と刻まれている。明治43年に現・中央小学校建設の整地に伴い発見された。現在、中央小学校に保管されている。     板碑 

 

瓦塔

 (町指定重要文化財 昭和49年9月21日指定)

瓦塔とは、粘土で焼かれた三重、五重の塔で、木造の本建築の代わりに作られた。多くは、奈良時代から平安時代に作られたといわれ、仏教史上の貴重な資料である。本資料は現・中央小学校敷地内から発見されたものである。屋根の一部が残っており、大きさは縦横約21cm、高さ約21cmである。現在、中央小学校に保管されている。   瓦塔

 

桜岩地蔵堂境内の丁杭式観音 

(町指定重要文化財 昭和53年2月28日指定)

丁杭式観音は、1丁(約108m)ごとに立てられた道しるべ観音で、江戸時代浅間山北側に広がる六里ヶ原は、旅人の難所であった。そのため、沓掛、狩宿、大笹の各街道沿いに、分去茶屋を基点として、三街道方向に各1番~33番まで観音が立てられた。現在、桜岩地蔵堂内に集められ安置されているが、当時の観音仏は時代と共に散逸し全部はそろっていない。平成3年地元有志の努力により、不足していた観音仏が整備された。    桜岩

 

六里ヶ原丁杭式基点観音 

  (町指定重要文化財 昭和53年2月28日指定)

基点観音は、丁杭式観音がはじまる基準になる観音で、分去茶屋に建立された。 丁杭観音が各33体で計99体あり、これに基点観音を加え100体観音となる。現在、桜岩地蔵堂境内に安置されている。      基点観音

 

 

常林寺の梵鐘 

   (町指定重要文化財 昭和53年2月28日指定)

常林寺は、滋野氏族で真田氏と同族である、鎌原氏の菩提寺として建立された寺院である。天明3年(1783)浅間山大噴火の時、泥流によって寺とともに吾妻川へ押し出された。明治43年(1910)8月10日の水害の際、川原畑地区の吾妻川の河川敷で発見された。現在、やんば天明泥流ミュージアムに展示されている。    梵鐘                                       

川原畑諏訪神社の宝篋印塔 

(町指定重要文化財 昭和53年2月28日指定)

宝篋印塔は、「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔及び墓塔として鎌倉時代以降多く建てられた。この宝篋印塔は、江戸時代の文政12年(1829)に信州高遠の石工により造られた物である。特徴は笠の部分が蓮の花を伏せた意匠で、塔全体に柔らかい感じをあたえている珍しいものである。以前は諏訪神社のわきにあったが、諏訪神社の移転とともに移設された。

     宝篋印塔   新諏訪神社  

仙峩滝不動堂の宝塔 

 (町指定重要文化財 昭和53年2月28日指定)

宝塔とは、中世に法華経を書写して塔に納めた石造物である。 室町時代応永年間(1394~1427頃)の造立と推定され、町の希少な中世の石造物である。      宝塔

 

宝塔 (外輪原)  

 (町指定重要文化財 昭和60年1月17日指定)

宝塔とは、法華経に基づく信仰に基づき建立されたものである。この宝塔は、上野国(現在の群馬県)内最西部に位置し、中世の頃、仏教文化がこの地域にも浸透していたことを示す有力な資料である。室町時代応永年間(1394~1427頃)の作と推定される。         宝塔 

 

桜岩地蔵尊 

(町指定重要有形民俗文化財 昭和62年3月9日指定)

寛延4年(1751)、狩宿村の人々が浅間越えの旅人の安全を願って分去地内の砂塚橋のそばに建立した。しかし、鎌原村の延命寺より当方に断りなく浅間山里宮として祀っているのは許せないと寺社奉行に訴えが出された。ところが、開眼供養した常林寺が動かしてはならないと主張、双方譲らないという訴訟事件が起こった。裁決は地蔵尊片付けとなり、この地蔵尊は他の場所へ移された。昭和初期、草軽電鉄が旧草津街道沿いにあったものを桜岩の地に安置した。桜岩の地名は、岩を割った桜の大木が両側にあったことに由来する。

              桜岩地蔵尊

 

海野長門守の墓碑(供養塔)  

(町指定史跡 昭和49年9月21日指定)

この墓碑(供養塔)は総高2メートルの宝篋印塔である。海野長門守は、戦国時代羽根尾を拠点に領地を所有していたが、真田氏の岩櫃城攻略のとき城主斎藤氏討伐の功績で、永禄9年(1566)吾妻郡代となり岩櫃城を守った。その後、真田氏に逆心したということで急襲され岩櫃城にて自害したと言われている。

      墓碑

 

羽根尾城 

(町指定史跡 昭和49年9月21日指定)

羽根尾城は山城で、城峰山の山頂周辺に作られた。山頂には本丸と土居がみえ、その南に二の丸、更に一段低く三の丸が続いている。また北側、堀切を隔てて水の手があり、山麓西側に地獄窪の地名が残る。築造年月は定かでないが、羽根尾氏が本拠とした城である。 

     羽根尾城跡   本丸

朝比奈三郎義秀の墓  

(町指定史跡 昭和49年9月21日指定)   

この五輪塔は、現在地より少し離れたところにあったものを移転したもので、朝比奈三郎義秀の墓と伝承されている。『北条九代記』によれば、義秀は鎌倉の和田義盛の子で、生母は木曽義仲の側室巴御前であると言われている。建保元年(1213)の和田合戦に武勇を轟かせたが、父義盛他、ことごとく討たれたため行方を隠したとも考えられている。そのため木曽の残党が潜入していた西吾妻へ移り、この地で終わったのではないかと地元では伝承されている。

         朝比奈墓

 

 御塚 

 (町指定史跡 昭和49年9月21日指定)    

浦野家墓地にひときわ目立つこの小山を里人は「御塚」といっている。浦野家の過去帳には、「大乗院 村信方印 寛永二年(1625)三月御塚之神也」とあり、村信という修験僧を葬った墓であることがわかる。口碑によると、この塚で即身成仏を願ったと伝えられている。      御塚 

         

   

長野原城跡(別名:箱岩城) 

(町指定史跡 平成2年3月27日指定)     

長野原街並みの北側の尾根、東西約700mに細長く位置している。本丸、出丸、箱岩出丸、物見台、水の手からなり、それぞれ虎口、堀切り、腰曲輪等で守られている。箱岩出丸の名は、岩壁に囲まれ目立つため箱岩城と呼ばれたものである。築造年月はあきらかでないが、戦国時代吾妻地方は武田方の真田氏と上杉方の斎藤氏の攻防が続いていた。永禄5年(1562)長野原城は真田方が守っており、翌6年(1563)岩櫃城主の斎藤氏は長野原城攻略に動き、ここに長野原合戦が現在の長野原町諏訪神社あたりで展開されたと言われている。その後、お互いの攻防が続いたが、天正10年(1582)以降どんな変遷を経たか全く不明で、廃城の年月日も不詳である。 
  長野原城跡  諏訪神社   

 

狩宿関所跡 

(町指定史跡 平成4年5月12日指定)

戦国時代、上田・沼田間は真田氏の戦略路であった。慶安4年(1652)真田氏は、狩宿に小規模の私関を創設した。この地は狩宿新田と呼ばれ、中山道の脇往還である信州街道と沓掛、草津、川原湯間の脇往還の交差点の要衝であった。寛文2年(1662)江戸幕府はこの地を公関として裁決、同4年(1664)3月25日普請が開始された。当時の掟によると善光寺への参詣の旅人と草津、川原湯への入湯客が主な取締りの対象で、特に「入鉄砲」と「出女」の詮議は厳しかった。狩宿の関所が現在の応桑小学校の校庭付近にあったと言われていることから、昭和45年応桑老人会と町当局の手によって、「狩宿関所跡之碑」が建設された。 

      狩宿関所

滝沢観音石仏群

(町指定史跡 平成31年3月22日)

この石仏群は三原三十四番観音札所めぐりの結願所である滝沢観音堂に勧請、または奉納、収納されたもので約80体が安置されています。御堂は現存しないが、石仏群だけが残されたものと考えられる。岩陰内には聖観音を中心に勢至菩薩や馬頭観音などが並び、反対の崖には六地蔵をはじめ子安観音や如意輪観音など、多数の石仏が見下ろし、荘厳な眺めとなっている。設置の際には住民が一つ一つ背負って運んだと伝えられている。

滝沢観音石仏群

王城山神社の神杉

 (町指定天然記念物 昭和49年9月21日指定)    

大木の胸高周4.64m、樹高36m、根元周5.1mで樹齢推定400年といわれている。神杉の由来については今では知ることができない。
    神杉  王城山神社  

      

浅見家ヒイラギの巨樹 

(町指定天然記念物 昭和53年2月28日指定) 

浅見家旧屋敷跡に立つ、もと庭木として植えられたもので、胸高周2.52m、樹高8m、根元周2.55m、樹齢推定200年以上である。
        ヒイラギ

 

 

御塚霊園境内のイタヤカエデ 

(町指定天然記念物 昭和53年2月28日指定)     

霊園の聖域を保つ巨樹である。胸高周3.70m、樹高32m、根元周5.30m、樹齢推定300年である。 

       イタヤカエデ

 

 

旧草軽電鉄北軽井沢駅駅舎

 (国登録有形文化財 平成18年11月29日指定) 

明治42年(1909)、当時の草津町の有力者が集まり草津興業株式会社を設立し、小型蒸気機関車による、草津軽便鉄道株式会社の営業を開始した。大正15年(1926)には草津温泉から新軽井沢間55.5kmの全線が開通した。昭和14年(1939)には、社名も草軽電気鉄道株式会社と改められ発展の一途をたどった。昭和4年(1929)地蔵川地区内に、法政大学村が開村されたことに伴い、大学村が駅舎を新築し、草津電気鉄道株式会社に寄附、軽井沢の北側に位置していたので「北軽井沢駅」と呼ばれるようになった。駅舎の正面玄関は和洋折衷形式の斬新なデザインであり、欄間には駅舎を新築した法政大学を示す「H」の文字が白くデザインされている。
昭和36年(1961)台風の被害や急速な自動車輸送の発展により草軽電鉄は廃止されることになった。この「北軽井沢駅舎」はその土地を知る上で重要な建物であり、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」に該当すると考えられ、平成18年(2006)に国の登録有形文化財になった。

 

北軽駅舎   

 

デキ12                                      

旧狩宿茶屋本陣

(国登録有形文化財 平成30年5月10日指定)

この地は狩宿新田と呼ばれ、中山道の脇往還である信州街道と沓掛、草津、川原湯間の脇往還の交差点の要衝であり、関所も設けられた。そのため、大名や武士が休息するための茶屋本陣が整備され、宿場町は大いに賑わいを見せた。本建物は本陣建築の姿を今に伝えており、休憩、宿泊の用途に使われる座敷部分と日常の生活空間が明確に分離されていて、最も格式の高い上段の間とそれに続く座敷がよく残されている。建物は地域色豊かな「出梁造り(出桁造り)」と「板葺き石置屋根」の外観を残している。北白川宮能久親王も宿泊しており、この地域の近代化を伝える家屋としても重要である。

狩宿茶屋本陣

 

 

 

 

長野原町の伝統行事

 

川原湯の神楽

開催日:4月8日 川原湯諏訪神社春祭り
開催場所:川原湯諏訪神社
昭和3年(1928)4月8日の川原湯神社の例祭の時に、吾妻町松谷神社の神楽を奉納してもらったのがきっかけで、地元の青年たちが、この神楽を習得したのが始まりという。太平洋戦争中に中断したこともあったが、昭和21年(1946)に再開し、現在に至っている。     川原湯神楽2

 

羽根尾の獅子舞

開催日:4月9~10日 羽根尾諏訪神社春祭り
開催場所:羽根尾諏訪神社、羽根尾・古森地区
神社への奉納後、各民家を回って安全を祈願している。地元の小学生が主体となってお囃子や舞を披露し、今も引き継がれている。     獅子舞

長野原の獅子舞                                                   

開催日:4月24~25日 長野原諏訪神社春祭り
開催場所:長野原諏訪神社、長野原地区
神社への奉納後、各民家を回って安全を祈願している。長野原文化会の方たちによって今も引き継がれている。     獅子舞

 

林の神楽

開催日:5月5日 林王城山神社春祭り
開催場所:林王城山神社
地元の住民がお囃子と舞を奉納する。大正2年(1913)から始まったとされている。

    林神楽2

 

与喜屋の神楽

開催日:5月15日 与喜屋養蚕神社春祭り
開催場所:養蚕訪神社
地元の住民がお囃子と舞を奉納する。明治25年(1892)頃から始まったとされている。   与喜屋神楽   

 

川原畑の百八灯

開催日:8月16日 
開催場所:川原畑三ツ堂(観音堂)
百八灯とは、200年前から行われているお盆の共同送り火行事で、人の持つ百八の煩悩を鎮める行事である。毎年8月16日に地区の子どもたち(近年では子どもが少なくなり、大人も参加)が集まって盆棚に使った竹をもらい集め、1mほどの竹串を108本作る。その先にロウソクをつけたものを三ツ堂のまわりを中心に参道沿いに立てます。夕方一斉にろうそくに火を灯すと暗闇の中にろうそくの明かりが浮かび上がり、素朴で幻想的な情景を作る。三ッ堂は平成20年に移設され、新三ッ堂となったが、百八灯の行事は、新三ッ堂の場所でとりおこなわれている。

   百八灯   新三つ堂

                                                                    

 林のだんご相撲

開催日:8月28日 
開催場所:林王城山神社
だんご相撲は8月28日の王城山の例大祭に境内で行われている。村の子供たちに相撲をとらせ勝敗に関係なく祝い品を与え、成長への祈願を込める行事である。昔は米の粉で人形を作り男子に持たせ神前に投げ、その身の守りとし、健全な成長を祈った。      だんご相撲

 

川原湯の湯かけ祭り

開催日:1月20日 
開催場所:川原湯温泉内
毎年1月20日の早朝、5時頃から川原湯温泉内で行われている、湯を掛け合う祭りである。およそ400年ほど前に温泉が止まり、困り果てた村人が温泉のにおいがゆで卵のにおいに似ていることから、川原湯諏訪神社に鶏を奉納しお祈りをしたところ、再び温泉が噴きだしてきたことから始まったとされている。現在では紅白に分かれて互いに湯を掛け合い、お湯の神様に感謝する行事として続けられている。  湯かけ祭り1   湯かけ祭り太鼓

 

お問い合わせ

長野原町教育委員会 教育課文化財係

. 電話 0279-82-4517. FAX 0279-82-3115